現代とは、要するに脳の時代である。情報化社会とはすなわち、社会がほとんど脳そのものになったことを意味している。脳は、典型的な情報機関だからである。
ちくま学芸文庫 唯脳論 表紙より引用
こんばんは、あいてぃ~です。
本日は養老孟司先生の著書、「唯脳論」について私自身の感想をまとめました。
脳とは何か?というテーマでありながら、その中身は解剖学的なものから社会学を絡めたものまで様々な視点から切り込んだ名著です。
それでは魅力、語っていきましょう。
唯脳論とは?
この世の中は、脳そのものである。
この一文に違和感を覚えない人は、この本を読む必要はないかもしれません。
本著では唯脳論について、情報社会・心・人工的造形物などこの世の中のほとんど全ては脳の機能が表に出てきただけ、としています。
また、それによって現代を生きる人々は脳の中に住んでいる、という表現もありました。
脳の機能が表に出た結果、現代社会が形成されている。ちょっと難しそうな雰囲気ですね。
例えば社会を支える通貨、お金はどうでしょうか。
唯脳論によれば、お金は脳のシンボル機能が現出したものだとしています。
脳の視覚系は、光すなわちある波長範囲の電磁波を捕えて信号化して送ります。また、聴覚系は音波すなわち空気の振動を捕えて信号化して送ります。
そこにあるモノ自体はただの電磁波であったり音波であったりするわけですが、それらおよそ無関係であるものが脳内の信号系ではなぜか等価交換によって言語が生じているわけです。
そうして我々の脳は言語を聞くこと・読むことができているように、お金というものも、それを媒介にして本来全く無関係なものが交換されている一連の流れは、脳内で起こっている信号系とよく似たものではないか、と主張しています。
始めは単に物々交換だったものが、社会が進むにつれ通貨という便利な機能が追加され、それが結果的に脳内で起こっている現象に限りなく近いと言えるのではないか、と。
お金に限らず、様々なことが最適化され便利になり、成熟した社会は脳そのものにどんどん近づく。
情報化社会まで成長した現代は、同じく情報器官である脳そのものだ、と言っていいのではないか、という主張が唯脳論だ、ということみたいです。
なるほど、やっぱりどこか難しい感じがしますね。
しかしながら具体例を交えて主張されると、案外反論できない気もします。
本書の魅力
テーマである唯脳論は、それの説明のみではどこか掴みどころがない感じがするものですが、その主張を支える本書にはいくつか魅力があります。
唯脳論という視点はもちろんですが、本そのものの魅力を3つ紹介していきます。
医学的読み物としての精度の高さ
一つ目は、医学的読み物としての精度の高さ、が挙げられます。
唯脳論の前半部分は主に解剖学的な観点から見た脳という器官のお話で、専門書ほどとは言いませんが解体新書を始めとしたさまざまな医学系の紹介がされています。
読んでいる感覚としては、同じく新書の中でも理系専門をかみ砕いて一般レベルに落とし込んだ本を数多く生み出す、ブルーバックスの本のようと言えるでしょう。
私は機械系の大学生ですので当然医学系知識に乏しいわけですが、それら医学的実験を目的から結果に至るまで分かりやすく解説されています。
また、それら医学の進歩に付随して発生する文化的・社会的事象についても触れており、多角的に解剖学の歩みを楽しむことができる構成となっています。
過去にブルーバックスに関してまとめた記事がありますので、ご存じない方はこちらもどうぞ。
超面白い本を数多く出版されています。
(なんでブルーバックス出版じゃないんだろう)
養老孟司先生の癖になる言い回し
二つ目は、著者である養老孟司先生の癖になる言い回し、です。
これは偏見ですが、理系出身の人ってやたら物事を小難しく表現しようとする一面ってあると思います。(私もその一人です)
一方でそうなってしまう理由として、学生時代から自身の主張に対して裏付けを取ろう、主張を強いものにするために他の人の意見を引用しよう、といったような意識を強く持っていた名残なのではないかなと考えています。
私の偏見と考察はさておき、養老先生の言い回しはまさに理系的、と言えるかもしれません。
都会とは、要するに脳の産物である。あらゆる人工物は、脳機能の表出、つまり脳の産物に他ならない。都会では、人工物以外のものを見かけることは困難である。そこでは自然、すなわち植物や地面ですら、人為的に、すなわち脳によって、配置される。われわれの遠い祖先は、自然の洞窟に住んでいた。まさしく「自然の中に」住んできたわけだが、現代人はいわば脳の中に住む。
ちくま学芸文庫 唯脳論 表紙より引用
上の文章の主張は、最後にある「現代人はいわば脳の中に住む」にあたるわけですが、単にこれだけ発言してしまっては何のことだかさっぱりですよね。
私の考えることを正確に相手に伝えよう、誤認されないように気を付けよう。これの繰り返しの結果、たった「現代人はいわば脳の中に住む」の主張のためにここまで膨れ上がってしまうわけです。
理系で論文を書く際はとりあえず先行研究の勉強をするわけですが、そこで分からない単語にぶつかったら別の論文を読む、そこで分からなかった用語が出てきたら更に別の論文で,,,という流れがありますので、最終的な自分の主張をするためにはこんな感じで膨れ上がっちゃうことは仕方ないとは思いますが、如何にも理系的な文章ですよね。
本著ではこういった、特有の言い回しなどが頻発します。
人を選ぶとは思いますが、癖になる人はきっと少なくないでしょう。
随筆的な構成
三つ目は、随筆的な構成が感じられるところです。
随筆的とはつまりエッセイ、著者が筆を思うがまま進めて書き進める作品というわけですが、医学的読み物としての完成度の高さの一方で、養老先生の考えが文字通りそこかしこに散りばめられており、美しい文章というよりは思うがままに書きなぐったという印象です。
これと二つ目の独特な言い回しに、医学用語を始めとした専門用語に哲学的視点が組み合わさり、後半は特に難解で一読しただけでは完全に理解することは難しいように思います。
一方で、随筆的作品であることから、題名や表紙の文章から感じるお堅さに飲まれてガチガチに読もうとする必要はないように思います。
大雑把にびゃーっと読み進めて、一周しちゃってから再度読み直せばよいです。どのみち一読では理解できません。
著者が思うがままに筆を進めて完成させているように(実態は知りません)、読者の我々も肩の力を抜いて読み進めましょう。
所感
本日は唯脳論について自身の考えを交えて紹介しました。
日々の社会が実は脳機能の現出でほとんど全て説明できてしまう、またそれによって開かれる新たな視点はどこか掴みどころがなく、それでいて妙に納得感がありました。
納得感があるのも当然で、それは既に脳の中で日々発生している機能であるから。議論が循環しちゃっている気もしますが、私はそのような不思議な感覚を覚えました。
実は本書を初めて読了したのはもう1年ほど前になってしまうのですが、自分なりに字おこしするまでにかなり時間がかかってしまいました。
現在でも完全に理解したとは言い切れませんので、今後も愛読していこうと思います。
それでは本日はここまで。